6月の話題 

御影村こそバリツのふるさと?

《最後の事件》で、スイス・ライヘンバッハ滝で、追ってきたモリアティをホームズは滝壺に沈めたのであるが、その時の様子を、ホームズは《空家の冒険》で再会したワトソンに「二人は取っ組み合ったまま、滝壺の断崖の上でもみあって、よろめいた。僕は日本のバルツを少し知っていたから、それまでにも何回かずいぶん役に立ったものだが、巧みに彼の腕をすりぬけた。とたんにモリアティは姿勢を崩して足が浮いたので、恐ろしい悲鳴をあげて、足を躍らせて虚空をつかんで踏み直そうとしたが及ばず、バランスを失って落ちていった」と説明している。この技は当初の延原謙の訳では「バリツ」、後の延原展の改版では「ジュウジュツ」にと表現されている。

 いずれにせよ、モリアティを滝壺に沈めた技は日本の武術で、バリツまたはジュウジュツとされているが、原文は「baritsu」であり、延原展氏の改版では、誰と相談したのか知らないが、変更に少し早計の感をぬぐえない。

 《空家の冒険》で、ホームズと再会し、そのショックで失神してしまったワトソンにとって、ホームズから気付け薬としてのブランディを口にふくませてもらって正気づいたものの頭はまだ朦朧としていたのであろう。ホームズが日本の武術の名称を何と話したかあいまいであったようである。バリツは、1899年にバートンライトという人物が、1899年に日本の柔術を応用した武術バーティツ(Bariz)の道場をロンドンで開き、新聞にも出て有名になった所から、《空家の冒険》を1903年にワトソンが書いたにあたってこれだろうと書き込んだものと推定されている。日本のシャーロッキアンもバリツ=バーティツ説が最有力と考える人がいるが、これは全くの謬説である。何故ならば、《最後の事件》は1891年のこと、8年後の1899年に開いた道場でホームズがこの技を習うことはあり得ない。

 バートンライトは、大阪や神戸の柔術道場で柔術を習い、日本人の谷という柔術家を高額で雇ってロンドンで道場を開き、かつ興行試合で評判をとった。会場はコーヒーハウスなどで、スポーツではなく見世物として開催した様子である。今の柔道では禁じ手である締め技や関節技を使って、大男のレスラーを小柄な日本人が打ち負かし興行は成功したようである。

 さすれば、スポーツとしての柔道をホームズに教えた人物は誰だっただろうか。諸説あるが、師範として最有力な人物はやはり日本柔道の父とよばれる嘉納治五郎である。いつ、とこで、どの位の期間指導したかについては日本人シャーロキアンもバリツ説の陰に入っていて未だ解明は進んでいない。

 6月仏滅会の会場であった御影公会堂には地下1階に、御影郷土資料館・嘉納治五郎の記念コーナーがある。治五郎の銅像が立ちバリツ研究家には一見に値するが、研究によっては神戸の御影がバリツ発祥の地である可能性が大いに考えられる。最も熟達の柔道指導者は、何といっても治五郎である。旧御影村の出身で、御影公会堂の建設資金を寄付した白鶴酒造七代目社長嘉納治兵衛の一族である。ロンドンにも柔道普及のため訪問しており、JOCの委員も務めた。

 シャーロキアンの研究テーマは尽きない。

 

 

戻る

inserted by FC2 system